銀の談話室にて、深淵を覗む

しがない世界で牛丼屋

四話「心に刻む、その覚悟は」



 いつもと同じ日常を送っているはずなのに、なんだか違和感を覚えてしまう。そんな経験はないだろうか?
 普段の通学路を初めて通るような、住み慣れた部屋の天井をなぜか新鮮に感じる……そういった類いの経験だ。
 あるという人は大変結構。ないという人も、しばし話につきあってほしい。実はこの奇妙な感覚には名前があるのだ。それは「既視感」の対義語で「未視感」というもの。見慣れているはずのものをまるで初めて見たように感じるというこの感覚、なぜ人間はこんな珍妙な機能をもつのだろうか?
 これは個人的な考えだが、俺は人間という生き物が新たな刺激を好むからだと思っている。新しい認識や知識は個体の生存率を高め、人間という種を進化させる。結果的な淘汰によって、人間は新たな刺激(知と言い換えてもいいだろう)を求める生物になったのだと思う。
 ……さて、以上の話から導くことができるのは、その性質から刺激を追い求めた結果、自分の居場所を見失う、つまりは迷子になってしまったとしてもそれは仕方がないということである。もちろんそれが三十手前のいい歳をした大人だったとしても例外とはいえない。だって人間なんだから。
「そう、迷子なんて恥ずかしくない。うん、論理的だな」
 改めて認めよう、今、俺は迷子だ。比喩でもなんでもなく、俺は自分がどこにいるのかまったくもって検討がつかない。




 なぜこんなことになったのか? その答えは簡単だ。先生と別れた後、俺は初めて見る異世界の街並みに気を取られてしまい、気付いたときにはステラの姿を完全に見失ってしまっていた。自慢ではないが、自分が歩いてきた道すらわからない。
「そして気付けばこの薄暗い路地にいた……と」
 見知らぬ街、それも異世界で一人ぼっち。
 元の世界であれば、携帯電話で連絡を取れば簡単に合流できるが、この異世界でそれは望めない。先生と集合場所と時間は事前に決めていたが、肝心の現在地がわからないのであれば意味がない。
 ここは恥を忍んで人に道を聞くしかないだろう。
「ん……?」
 周りのようすをうかがっていると、ぼそぼそとささやくような声が聞こえてくるのに気付く。直接姿は見えないが、近くに人がいるのだろう。これ幸いにと声のした方へと進んでいくと、そこには薄汚れた外套をまとった三人組がいた。フードを下ろし、見えているのは口元だけ、背格好から見るとどうやら全員男のようだ。見た目で人を判断するのはよくないが、正直に言って怪しい人たちだった。
「おい、なんだお前は」
 そそくさと立ち去ろうとしたが、運悪く男の一人に見つかってしまう。
「い、いや。俺は……」
 驚いて、みっともなくうろたえてしまう俺。ステラに情けないところを見られなくてよかったと思うが、そもそもステラとはぐれなければこんな状況には陥っていない。
「こいつ、騎士団では……」
「まさか。こんな死んだ魚のような目をした男が騎士団ということはないだろう」
 失礼な。誰が死んだ魚か。
 その後も男たちはなにやらぼそぼそと話し合っていたが、ふいに一人の男がこちらに歩み寄ってきた。彼が身にまとう古い外套からだろうか、なにか鼻をつくような臭いがあった。
「君は、勇者になりたいと思うか?」
「ゆう、しゃ?」
 勇者と言うのは、あの勇者のことだろうか。突然の意味不明な問いに、俺は思わずオウム返しをしてしまう。勇者といえば言葉の通り、勇ましき者……そしてほとんどの場合、魔王に反抗する者たちのことを指す。俺がそれになりたいのか、と彼らは問うたのだろうか。魔王が支配するこの世界で。
「答えろ。お前はこの世界を……魔王に支配された世界を認めているのか、と聞いたのだ」
「魔王の支配……と言われても……」
 こちとらこの世界に来たばかりで肝心の魔王すら見たことがない。支配を認めるのかと問われても、なんとも答えようがないのだ。しかし、男は歯切れの悪い返事を聞いてあからさまに不機嫌になった。
「嘆かわしい。未来を担うべきお前のような若者が何の考えも持たないとは」
 そう言って男はさらに俺の方へと近づいてくる。今やその距離は手を伸ばせば届くほどだ。そして、フードから覗く口元は怒りに歪められていた。なんだかよくわからないが、非常にまずい状況なのはたしかなようだ。男からあきらかな怒りを感じる。
「志なき者は次の世に不要だ。自分の不運と魔王を呪え」
「なにを……」
 男は不穏な台詞を言ったかと思うと、俺に向かって自らの左手を伸ばす。その手にはなにも握られてはいなかったが、腕には金属の輝きを宿した腕輪がはめられていた。そして、見る間に男の腕輪からは青い光がほとばしる。陣を描き、宙を舞う光はステラや先生が魔法を使う時のものと同じだった。
 自分に向かって魔法が放たれる。それを理解した瞬間、目をつむって次に来るであろう衝撃や痛みを覚悟したが、なぜかいつまで経っても痛みも衝撃も襲ってはこなかった。代わりに投げかけられたのは背後からの声。
「君、そこで何をしているんだ?」
 驚いて振り返って見ると、そこには女性の姿があった。長い水色の髪を後ろでまとめ、きちっとした服に身を包んだその人はおそらく元の世界では警察や軍人と呼ばれる立場にあると察せられた。
「いや、今この人たちに……」
 俺は目の前にいる外套の男たちを指さそうとするが、そこに男たちの姿はなかった。彼らはいつの間にか忽然と姿を消してしまっていたのだ。
「……誰もいないようだが」
 白昼夢、というわけでもあるまい。
 それにあの男は俺に魔法を使おうとしていた。それがどんなものだったかはわからないが、ステラの使っていた魔法の威力を考えると、それは人に向けられるべきものでないはずだ。
「すまないが、君。すこし話を聞かせてもらえるだろうか」
 そう言って制服らしきものに身を包んだ彼女は、路地をふさぐようにして立つ。
 おっと、これはどうやら。
「職務質問ってやつかあ……」




「はは。それで外套の男たちに魔法を向けられそうになったと?」
「笑いごとじゃない、本当なんだ」
 水色の髪の彼女は名をロゼといい、このエリュンを守る騎士だという。どうやら予想の通り、騎士というのは元の世界の警察や軍に当たるものであり、魔王に仕える者として街の治安維持を行っているようだ。
 俺は迷子になったことや外套の男たちのことを話したが、何故かロゼは笑ってその話を流してしまった。
「いや、さすがに信じられないな。人に向けて、それも街の中で魔法を使うなんてことはあり得ない」
「なんで……」
「なぜって……そんなのはわかりきったことだろう? 街は魔法制限区域だ。騎士である我々を除けば、人を傷つけられるような魔法はそもそも起動すらしない」
 魔法制限区域。割に重要なことをまったく説明してくれなかった先生を恨むが、とりあえずここはロゼに話を合わせておく必要があるだろう。面倒ごとを避けるために、異世界からやってきたということは秘密にしようと先生と約束している。
「その男というのが騎士、という訳でもないのだろう?」
「あ、いや。それはそうなんだが……えっと……」
 しかし、元来嘘は苦手な性分だ。とっさに上手いごまかしなど思いつかない。
 俺は自分でわかるくらいにきょろきょろと目線をさまよわせてうろたえていたが、ロゼはなぜか笑みを濃くすると仕方がないな、という風に笑った。
「いい歳で迷子になったことを別の話でごまかしたい気持ちもわかる。しかし、安心したまえ。仮にも私は騎士だ、他人が恥じることを責めるつもりはないさ」
 自分の胸に拳をどん、と当てて得意げな顔のロゼ。
「……」
 なんだろうか……疑われなかったのは結果的に助かったのだが、迷子になったことを必死にごまかそうとしていたと思われるのは、すこしというかかなり屈辱的である。「大丈夫、私は理解しているよ」というロゼの微笑みが、余計にこちらの悲壮感を強める。とはいえ、この状況は利用するしかない。ロゼの勘違いに話を合わせておく。
「よし、それで君はどこで待ち合わせをしていたんだっけ」
「中央広場。たぶん、連れもそこで待っていると思う」
 むしろステラにあちこち捜させていると思うと、申し訳ないやら情けないやらでさらに気分が落ち込んでくる。先ほどの外套の男たちのこともあるし、彼女も危険な目にあっていないといいが。
「では広場まで案内するからついてきたまえ。今度ははぐれないようにな」
 ロゼはそうやってまた、いたずらげに笑った。
 一見、きっちりとした制服や切れ目で端正な顔立ちのせいか冷たい印象を受けるが、こうやって笑うロゼはなんだか人なつっこい犬のような雰囲気があった。
 まあ、実際犬のようについて行くのはこの俺なわけだが。



 ロゼに案内された中央広場はたくさんの人であふれていた。
 路地裏では奇妙な人たちと出会ってしまったが、こうやって街を改めて見渡すと多くの人が笑っているという印象を受ける。
 魔王が支配する街。多くの人が笑い合う街。
 だが、俺に勇者になりたいかと問うたあの男たちは魔王を憎んでいるようだった。
「なあ、ロゼ。勇者って……」
 俺はロゼにこの世界における勇者とはなんなのかを問おうとしたが、その言葉は不意にぶつかってきた影に邪魔され、かき消えてしまった。
「つゆだくーーーー!!!」
「おわっ、ステラ……!」
 それは俺を捜していたであろうステラだった。かなり心配させてしまったようで腰のあたりに抱きついて離れない。
「どこにいたのー! 気がついたら後ろにいないんだもん!」
「す、すまん。街の景色に夢中になって……」
「もうー、でも無事に見つかってよかったよ。よく広場の場所がわかったねー」
「この人に案内してもらったんだ」
 俺は傍らに立つ騎士、ロゼを指す。そして、ステラに彼女を紹介しようとするが……。
「ロゼお姉ちゃん!」
「やあ、久しぶりだなステラ。あの銀色頭はまだ生きてるか?」
「うん! せんせーも元気だよ」
 どうやら二人は知り合いだったらしい。会話から察するに先生のことも知っているのだろう。しかし、先生は銀色頭と呼ばれているのか。
「君がステラの連れだったとはね。世間は狭いものだ……っと、そういえば名前をまだ聞いていなかったが、つゆだく……と言うのか? 珍しい名だな」
「あ、ああ……名付けてくれた人が変わり者でな……」
 この世界の人はもちろん「つゆだく」というのが、牛丼の汁を多めに、という意味であることを知らないのだが、未だにそれを名前として使われるのにはかなり違和感がある。
「ふむ……人様の名前をとやかく言うのは無礼だな。失礼した」
「いや、大丈夫。それよりも案内してくれて助かったよ」
 俺は改めてロゼに礼を言うが、ロゼは手をひらひらさせて気にすることはない、という素振り。街で困っている人間を助けるのも騎士の役目だと語る。
 しかし、ロゼの格好を改めて見てみると黒を基調とした制服を除けば剣や銃など武器を持っていないことが気になった。食事と同じようにこの世界では武器に関しても魔法が代替品になっているのだろう。
「それよりもステラとつゆだくはどういう関係なんだ? 親子……という訳でもないのだろう?」
「うーん、わたしの弟弟子だよね?」
「弟子……」
 一応は銀丞のことを先生と呼んでいるし、弟子ということにしておけば色々と説明がやりやすくなるだろう。しかし、今日は無職だったり迷子だったり弟子だったりと妙な肩書気ばかりがつく日だ。そして例外なくいまいち釈然としない肩書きばかり。今度は親子ほど年の離れた少女の弟弟子を名乗ることになるとは。
「はははっ、あの銀色頭め。二人目の弟子を取るとは!」
 ロゼはひとしきり大笑いして、というか笑いすぎて目に涙まで浮かべた後、物好きな人間もいるものだと何故か一人頷いていた。このロゼという人、最初は真面目で規律正しい人かと思ったが、割に親しみ安そうなお人だ。
「ふふ、失礼。なるほど、あの銀丞の弟子というのなら迷子になるのも納得できるな」
「いやいや、弟子っていってもまだなにも教えてもらってないし……」
 ロゼの反応を見る限り、先生はどうやら家でも外でもぼんやりしているらしい。いい歳で迷子になった俺がなにか言える立場ではないが。
「ということはあいつもこの街に来ているのか?」
「うん、でも他に用があるらしいから今は一緒にいないよー」
「そうか。……ふむ、今日は妙に街外からの客が多いな」
 なにも起こらなければいいが、とロゼがつぶやいた瞬間だった。
 俺は視界の端に見覚えのある姿を捉える。それは薄汚れた外套をまとった三人の男。男の一人は自らの左手を掲げ、何かをつぶやいた。
「おい、ロゼあれって──」

 その直後だった。
 突如、広場で大きな爆発が起こった。




「ごほっごほっ! ったた、なにが起こったんだ……」
 体験したこともないようなすさまじい熱と衝撃だった。しかし、思ったよりも周囲の被害が少ないように思える。不思議に思って辺りを見渡してみると、爆発を押さえ込むように周囲に巨大な氷の壁が出現していた。見ればロゼの手からは青い燐光。おそらく爆発に合わせてロゼが魔法を使ったのだろう。だが、突然のことだったからか、爆発の威力が強すぎたのか、ロゼ自身は爆発をもろに受けていた。
「おい。大丈夫か、ロゼ」
「……ああ、なんてことはないさ。それよりもステラは──」
 そのロゼの声に応じるように俺の腕の中にいたステラがもぞもぞと動く。自分でも驚いたが、爆発の直前、とっさにステラを庇うように身体が動いたのだ。どうやら彼女はかすり傷一つなく守れたらしい。
「わたしは大丈夫だよ! ありがと、つゆだく」
「おう、無事でよかった」
「周囲の皆も……どうやら無事みたいだな。くそっ、何故街でこんな魔法が……」
 ロゼは街中で殺傷力のある魔法が使えるのは騎士だけだと言っていた。しかし、路地裏で出会ったあの男たちはどんなからくりかはわからないがそれを可能にしたのだ。
 爆発を起こしたその男たちは、他人にあれだけの暴力を向けたというのに平然とした様子で周囲の様子を見回していた。
「ふん、広場を焼き払うつもりだったが……騎士が邪魔をしたか。まあいい、ならば聞け! 魔王に従う愚か者たちよ!」
 三人のうちの一人、おそらくリーダー格であろう男が外套のフードを取り、広場でうずくまり倒れる人々に向かって大声を張り上げる。
「私は『救世ぐぜの灯火』のイャン・ドラス。覚えておけ、勇者として魔王を討ち果たす者だ」
 フードを取ったその顔は若い男のものだった。おそらく俺とそう変わらない、三十前といったところ。しかし目だけが何かに取り憑かれたようにぎらついていて、不釣り合いで奇妙な印象を受けた。
「魔王さまを討つ……だと。貴様、よくも騎士の前でそんな言葉を吐いたな……っ!」
 男の言葉に怒りを強めたロゼが立ち上がる。ロゼの服にはいくつもの染みが出来ていた。黒い制服だからわかりにくかったが、おそらく爆発の時に怪我を負ったのだろう。
「ロゼ、お前それ……」
「……っ、問題ない。君はステラを連れて逃げろ」
「だけど……」
 彼女の傷はどう見ても軽くはない。ましてや男は三人。全員が魔法を使えるのかはわからないが、どう見ても不利な状況だ。
「これは騎士の、私の役目だ。魔王陛下の敵を排除する、皆の安全を守る、そのために私たち騎士がいる」
「ロゼ……」
 そう話している間にも外套の男は広場の破壊をさらに広げており、俺たちの方にもいくつもの火球が飛んできた。ロゼが氷壁を作り庇ってくれるが、漏れ出た熱気が頬を炙った。
 初めて身体で直に感じる暴力。それに対して傷ついた身で立ち向かおうとするロゼ。
 覚悟する時間なんてなかったはずだ。なのに何故彼女は迷いなく立ち向かえる?
「つゆだく! 行こっ、ここにいたら危ないよ」
「……っ」
 ステラに手を引かれる。
 騎士の役目、とロゼは言った。彼女は自信と覚悟をもって自分の役目を果たそうとしているのだろう。こんな状況だが、俺は元の世界で自分の役目を持てなかったことを思い出して、なんというか……そう、嫉妬のような気持ちを抱いていた。いや、それはロゼに対してだけではない、イャンと名乗ったあの男に対しても、もしかしたら先生にも……。
 夕暮れの中、少女の笑顔のために不格好なジャムのタルトを作った。
 それは元の世界で忘れかけていた夢への希望を思い出させてくれた。今度こそ自分の夢を叶えたいという覚悟を持てた。だけどそれは、元の世界に帰れるかもわからず、大好きな牛丼も失われてやっと持てたものだ。
 なのにロゼはほんの一瞬で自分の命をかけるだけの覚悟を決めた。俺は二十年かけてやっと気持ちが固まったというのに。妙な感情が腹の中を巡る。嫉妬、混乱、恐怖、葛藤。背後に明確な死が迫っているというのに何故か頭は別の場所にいるみたいだった。
「つゆだく! はやくっ!」
 なおもステラが手を引く。
 そうだ、今はこの場所を離れなければ。俺にはなんの力もない。魔法も暴力も、武器も。今はステラを守ることだけを考えるべきだ。そう思って走り出そうとした瞬間だった。
「ほう。女に背を任せ、童に手を引かれて逃げるか」
 それは外套の男、イャンの声だった。その声には明確な嘲笑が感じられた。
「お前の顔は知っているぞ、路地裏にいた男だな」
 男はさらに続ける。
「そうだ、無様に逃げろ、敗走しろ。覚悟なき者にはその姿がお似合いだ! 二度と我々の前に姿を現すな!」
 背中に受けた言葉と笑いは俺の誇りを汚すには十分だった。心にこびりついたように残った一片の誇り。だがそれは最後まで捨てずにいたもっともかけがえのないものだ。
「つゆ、だく……?」
 思い返せば俺は何度もあきらめて、その度に逃げ出してきた。職場から、家族から。ここは俺の夢を成す場所ではない、誇りを持たない者ばかりがいると。そんなことを繰り返すうちに、俺は自分でも気付かぬうちに一つの誓いを、矜持を作り上げていたのだろう。たった今それに気付いた、夢をあきらめかけていた癖に意地汚く固めた矜持。そしてそれは夕暮れの覚悟と外套の男の言葉で焔のように燃え上がった。
 もう二度と揺るがすな。
 それは『もう何があっても、二度とその場から逃げ出さない』ということ。
「つゆだくってば!」
 『行け』という声が頭の中で聞こえた。懐かしいけれど聞き飽きたような声。その声が俺の最後の躊躇を打ち崩した。ああ、今俺はどんな顔をしているのだろうか。自分でもわからない。だが、確信できることが一つだけある。
 俺はイァンに怒っているのだ。他人を見下し、自分の都合で多くの人を傷つけるあの男に。だから、たった今固めた自分の誇りにかけて為すべきことを為す。

 そう。俺はたぶん、初めて人を殴る



 自分でも驚くくらい足が速く動いた。
 イァンが俺を敵として見ていなかったこと、運よく直前にロゼの放った魔法が目くらましになったこともあるだろう。何の格闘技も習ったこともない、素人の拳だったが勢いと不意打ちのようになったことで俺の拳はイャンの横っ面を打ち抜いた。
「ぶっ……!」
 イャンが倒れることはなかったが、よろめき、体勢を崩す。しかし、満足したのもつかの間、俺はイャンの両脇にいた二人の男に組み伏せられてしまう。もちろん、殴り飛ばした後のことなど考えていない。
「き、貴様! イャン様になにをっ!!」
「楽に死ねると思うなよ……!」
 男たちが口々に俺を罵る。そして、次の瞬間目の前が真っ白になった。何のことはない、イャンに顔面を蹴り飛ばされたのだ。
「黙って、逃げ出していればっ、見逃したものをっ! このっ!!」
 ご丁寧に言葉の切れ間に蹴りを入れてくれるイャン。口の中に鉄の味が広がっていくが、俺はあんなに足が速かったかなあ、というどうでもいいことばかりが頭にあった。
「つゆだく……!!」
 ロゼの叫びが聞こえる。しかし、最初の爆発から俺たちと広場にいた人を庇ったことで限界に達していたのだろう。彼女は片膝をつき、もう立ち上がることも出来ないようだった。見れば制服に広がる染みもどんどんと広がっていた。
「つゆだくを離してっ!」
 それはステラの声。他人想いの彼女のことだ、俺を助けようとして無茶をしないか今になって心配したが、ロゼが抱き留めてくれていた。今日会ったばかりだが、ロゼには助けられてばかりだ。いつかお返しをしたいが、さてその機会はあるだろうか。
「イャン様、そろそろ他の騎士が集まってくる頃かと……そろそろ仕上げを」
「ちっ……この痴れ者のせいで無駄な時間を使ったな……。まあいい、あの世で後悔でもしていろ」
 そう言うとイャンは俺に向かって腕輪がはまった腕を伸ばし、呪文を唱え始める。
 ああ、くそう。どうやらここで終わりのようだ。しかし、初めて自分で御しきれないくらいに怒ったその場で殺されることになるとは。未来に不安しかない人生だったが、さすがにこんな終わり方は予想もしていなかった。
 『後悔しているかい?』とまた頭の中で声がした。
 不思議と後悔はなかった。牛丼を再び口にすることも出来ず、料理人になるという目標も達成せずに死ぬというのに、色々なことをあきらめ、自分に言い訳する日々よりも、幾分も『生きている』という実感があった。今更気付いたのだが、どうも俺はろくでもない人間らしい。 
 青い燐光が輝きを増す。
 目を瞑る。今度ばかりは逃れられないだろう衝撃を覚悟して。

 しかし、そこに声が響いた。この世界で目覚めたときに聞いたのと同じ声が。

「自分の命を犠牲に覚悟を貫く、か」
 こつりと、石畳を叩く足音。
「うん──二十点だ、つゆだく君。その程度で君が消えるのを許してはあげられない」
 次の瞬間だった。信じられないような風の暴流が周囲を襲う。目も開けていらないような渦の中で俺は吹き飛ばされた外套の男たちと、にやけ顔の先生、そしてその傍らに立つ山のような大男の影を見た。
 そこで俺の意識は暗転する。



 夢を見ていた。
 昔の夢だ。俺がまだ実家にいた頃のつまらない思い出。
 俺は奥座敷で父親と向かい合って座っている。親父の顔は見なくてもわかる仏頂面で、台詞は決まって「お前はこれからどうするつもりなのだ」というもの。だが、俺はそれに対して口をつぐんだまま、何も答えられない。そして、親父はあきれたようにため息をつきこう言うのだ。
「お前はどうしようもない人間だ。だが、俺の息子には違いない。だから何も考えずに家を継げ。お前に出来るのはそのくらいだ」
 今ならわかる。俺は悔しくて仕方なかったのだ。親父にあきれられたとかそういうのではない、俺は自分の可能性を人に決めつけられたのがどうしようもなく悔しかったのだ。



「──だく!」
 夢の狭間から覚醒する。目を開けると空が見えた。
「──ゆだく!」
 ステラの声だ。そう思うと一気に意識が覚醒する。
「すて、ら……?」
「つゆだく……! せんせー! つゆだくが目、覚ましたよ!」
 俺の目が開いたことを確認したステラが走って行く。おそらく先生を呼びに行ったのだろう。俺は……そうか、あの外套の男たちに手ひどくやられて気を失っていたのだろう。だんだんと直前の記憶が思い出される。しかし、無事に生きているということは最後は先生が助けてくれたのだろうか……?
「おう」
 突然光が遮られる。そこには見覚えのない男の顔があった。歳は三十の半ばといったところだろうか、骨格もがっしりとしているが顔のパーツ一つ一つが大きいせいか全体的に熊のような印象を受ける。
「ど、どうも……」
「ふうん……。やっぱりよく似てんなあ、お前。しっかしあの銀丞がね……へへ、おもしれえこともあるもんだな、こりゃあ」
 まじまじと人の顔を見つめて独り言をつぶやく謎の男。転生したときに先生に詰め寄られたときはどきどきしたが、さすがにこんな厳めしい顔つきの男に心はときめかない。
「えっと……あなたは……?」
「おいおい、兄ちゃんひでえな。命の恩人の顔だぜ、しっかり覚えておいてくれや」
 そう言って立ち上がった男の姿を見て気付いた。あの時、荒れ狂う風の中で先生の隣にいた大男だった。
「俺はゴードンだ。ゴードン・シープソルト、一応魔王軍の幹部ってことになってる。これからよろしくな、えーっと。名前はなんつうんだっけ」
 自分の名前。
 ……まだ少し気恥しいが、覚悟を形にするためにも、もうこの名を恥じることはやめにしよう。
「つゆだく……俺はつゆだくです」
「つゆだくか。へっ、面白い名前だな」
 差し出された手は大きく、分厚かった。




 それから俺は色々と説明を受けた。
 広場を襲ったのは『救世ぐぜの灯火』と言われる反政府組織。どうも今回街の広場を襲った目的は魔王への宣戦布告にあるらしい。そして、そいつらに捕まって殺されかけていた俺を風の魔法で助けてくれたのが、ゴードンさん。曰く、彼は魔王の配下の中でも強い実力を持つ『四賢将』と呼ばれる立場にあるという。関係はよくわからないが先生の知り合いらしく、先生の用というはこの人に会うことだったようだ。
 『救世ぐぜの灯火』のイャンたちはどさくさに紛れて逃亡してしまったという。改めて思い出してみると魔法も武器もないくせによく突っ込んでいったものだ。自分で自分の無謀さに笑ってしまう。ただ、ステラとってはまったく笑えないというか激怒する事案らしく、こっぴどく叱られてしまった。彼女を心配させてしまったのは本当に心が痛んだし、俺のことを本当に大切に思ってくれているのだということが感じられて心が温かくなった。先生はそれを見て笑っていたが。
 ロゼは俺と一緒に治療を受けていたが、どうやら命に別状はないらしい。今度お見舞いにでも行ってお礼と迷惑をかけた謝罪をしようと思う。
 こうして俺の初めての異世界街歩きは終了した。
 食材も見つからず、わかったのは俺自身の無謀さというか無鉄砲さだけだったが、俺は自分の中にある強い気持ちに気付くことが出来た。一度死んで、もう一度死にかけてからやっと気付くなんて自分でも本当にのろまで馬鹿らしいと思うが。

 ──俺は今度こそ、絶対に逃げない。
 いくら料理のない世界であろうと、俺は料理人になってみせる。この世界に牛丼を広めてみせる。流されて、逃げ出して、やっと行き着いたこの場所で俺は、夢を叶えるという覚悟を心に刻んだのだ。

一章 完 二章へと続く
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