銀の談話室にて、深淵を覗む

しがない世界で牛丼屋

序章



 人は皆、なにかをあきらめて生きている。
考えてみれば当たり前のことだ。全ての人間が自分の欲望に素直に生きてしまえば、世界はすぐに立ち行かなくなってしまうのだから。
 でも、それが現実だとしても、俺はその全てを肯定していいようには思えない。
 いつだったか、時間やコストを理由に仕事を妥協せざるを得なかったことがある。
その時先輩は「しょうがない、これが仕事ってもんだ」と言って、俺の肩をぽんと叩いた。あきらめろとでもいうように。
 それに対しては、色々な見方があるだろう。社会人としは正しい行動なのかもしれない。でも、俺にはそれがとてもひどいことに思えたのだ。なにか大切なものに蓋をして、見なければならないものを諦める、それが大人になることだと言い訳するような……。
 とはいえ、全てのことを諦めない、なんてことは現実的には不可能なのも理解している。悲しくも世の中は不条理に満ち溢れていて、理想論はあくまで空論の類で卓上を散らかすものでしかない。ああ、そうだ。そんなことは嫌というほどわかっている。
他ならぬ俺だって、結局、夢を実現できずに今の仕事を続けているのだから。
 俺の夢は料理人になること。ある人との出会いをきっかけに、どこかのドラマや小説のように派手ではないが、その仕事で生きてみたいと思えるほどには印象深い出来事があって、ある時からそんな夢を抱くようになった。
だが、三十路も近づいてくると、嫌でも自分の力の限界というものが見えてくる。夢を叶えたいと思う気持ちを、誰でもない俺自身が「無理なのではないか」と冷ややかに笑うのだ。その反面、なぜか焦がれるような夢への気持ちはなかなか消えてくれない。
おそらくは、この辺りが分岐点なのだろう。
諦めずに自分の夢を追うのか、それとも夢から醒めるのか。選べる道が少ないわりにどうにも取り返しがつかないのが手におえない。
……なんて、我ながらくだらない妄想だ。なんだかんだと文句を言いつつ、俺は生活のために、今の仕事を続けるより、他に方法がないのだ。少なくとも、俺の足りない頭で考えられる限りでは。
でもふとした瞬間、俺はすごく怖くなることがある。このまま信念もないまま仕事を続けていくうちに、俺は夢を諦めてしまうのではないだろうか、と。



 2

 牛丼が食べたい、食べないと死ぬ。
 そう思って会社を這い出る。お昼時のオフィス街は束の間の憩いと、空腹を満たすために這い出したサラリーマンであふれかっていた。ざわざわとした喧騒の中で聞こえてくるのは「今日はなにを食べよう」とか「あれも飽きたなぁ」という会話。限られた昼休みの時間の中で、取れる昼食の選択肢というものはそう多くない。店の入れ替わりがあるとはいえ、何年も同じ場所にいれば、周辺の昼食事情に必然と飽きも来るだろう。
 だが、俺は例外だ。毎日食べても飽きない、いやこれから一生それだけしか食べられない呪いにかかってもいいと思える好物がある。
 それは「牛丼」。それも大手チェーンのような量産品ではない、本物の牛丼だ。
 俺はその本物を求めて歩みを進める。



 3

 都会の雑踏に紛れるようにしてたたずむ、古風な小料理店「塩野屋」。お世辞にもおしゃれとは言えないさびれた外観にカウンターのみのこじんまりした店構えだが、なにを隠そうここが牛丼の聖地、メッカオブ牛丼。俺が求める最高の牛丼を出す場所なのだ。
「いらっしゃい……ってなんだ、お前か」
 色あせた暖簾をくぐり、横開きの扉を開けると見慣れた店主が愛想悪く出迎えてくれる。どうやらちょうど客がはけた頃合いのようで、店内はがらんとしていた。まあ、元より数人しか入れないような狭い店だが。
「なんだ、ってひどい言い草っすね……。これでも毎日食べに来ているお得意様でしょうに」
 俺はもはや定位置となったカウンター席に座りながら、白い調理服に身を包んだ初老の男性、店主である塩野しおの 玄蔵げんぞうにそう文句を言う。
「そういうんならたまには牛丼以外も食ってほしいもんだねえ。こっちも流行りに合わせて日替わり定食やら苦労して仕込みしてんのに」
 飽きもせず毎日牛丼だけを食べ続ける俺をからかうように玄蔵さんは笑うが、そんなもので俺の気持ちはまったく揺らがない。
「日替わりと言いつつ、それってどうせ昨日の余りものでしょ? それより牛丼、牛丼をください。もちろん、つゆだくで」
 つゆだく!つゆだく!と連呼する俺に玄蔵さんは諦めるように大げさに肩をすくめると、慣れた手つきで調理にかかる。
 調理と言っても牛丼なんて寸胴で煮込んだ具をご飯に盛り付けるだけ……そう思う人間は本当の牛丼というものを食べたことがないのだろう、憐れすぎて涙を禁じ得ない。そう、この塩野屋の牛丼……本物の牛丼は注文を受けてから一品一品、丁寧に作り上げるのだ。
 玄蔵さんが取り出したのは、やっとこ鍋と呼ばれる取っ手のない鍋。文字通り、やっとこを取っ手代わりにして、調理を行うもので、大小さまざまなサイズが揃っている。その取り回しの良さと洗いやすさから、少量かつ品目を多く作る和食では重宝されるのだ。
今、玄蔵さんが使っているのは直径十センチほどの小ぶりで底浅の鍋。牛丼一杯分の調理に最適なサイズで火の回りもよく、無駄な時間がかからない。
特製の割り下を入れた鍋が十分に温まったことを確認すると、次に玉ねぎが入れられる。この時点ですでに店内は幸せなダシの香りで包まれた。これから訪れるであろう、幸せな時間を想像し俺はごくりと生唾を飲む。
「そんな、食い入るように見つめて楽しいかね」
 玄蔵さんがじとり、と目を細めてこちら訝しげに見ている。
「牛丼が作られるその調理もまた楽しむべきもの、というのが持論なもので。それに、過程を楽しんでこその娯楽でしょう」
 俺がそう返すと、うわー、こいつ牛丼ひとつになに言ってやがるという冷ややかな視線が無言で飛んできた。
 これまで幾度となく繰り返したやり取りは意識の外に置いておき、俺は玄蔵さんの調理に再度集中。十分に玉ねぎに火が通ったようで、次は牛丼の主役とも言うべき牛肉が投下される。
 使われるのは牛ロース。甘い脂と旨味のある赤身がバランスよく配された部位。こだわりを感じるのは、肉を煮込む時間だ。通常は長時間煮込むことが多い牛丼に置いて、塩野屋の牛丼はほんの数秒しか肉を煮込まない(これは驚くべきことだ!)。そして、わずかに色づいた肉は、玉ねぎや割り下と共にどんぶりに盛られた白米の上に降り立った。
「あいよ、お待ちどう。塩野屋の特製牛丼」
もちろんつゆだくね、と言いながら、玄蔵さんは俺の前にどんぶりを置き、にやりと笑った。
「いただきます……!」
 使い込まれ、色あせたどんぶりに満ちているのは飴色の宝石となった具材たち。俺は急いで箸をとり、肉を一枚つまみ、それで玉ねぎと白米を包みこむようにして最初の一口を頬張る。

 ──瞬間、目の前に極楽浄土が現れた。

 なんだこれは。なんだこれは。幾度となく、それこそ飽きるほど繰り返し食べているのに、なぜこの牛丼はここまで俺の舌と脳を喜びで埋め尽くせるのか。
 感動に打ち震えつつも、さらにもう一口。
 頬張った瞬間にやさしくも力強く鼻腔に抜けていくのは割り下、もといダシの香りだろう。さらにそこから具材を咀嚼すると、紐解かれていくのは旨味の万神殿パンテオン。肉と野菜、そしてダシの旨味全てが調和し、お互いを引き立てあっている。さらに牛肉は、あの数秒の加熱とダシの余熱によって、肉質は柔らかいまま脂が染みだすという完璧な状態。注文を受けてから一品ずつ作るという手間をかけなければこうはなるまい。
また、あえて厚めに切られた玉ねぎは表面にしっかりとダシが染みており、逆に中からはねぎ本来の香りが広がり、ダシや肉との素晴らしいハーモニーをうみ出している。
ジーザス!
 ああ、この牛丼はもう……
「……美味いというよりも尊い」
自然と合掌する両手。なるほど、いただきますとごちそうさまはこのために手を合わせるのか、という納得感すら得られる。約束の地はここにあったのだ。
「お前それ毎日やって飽きないわけ?」
そう呆れたようにつぶやいたのは、調理を終え、椅子に座って新聞を広げていた玄蔵さん。
 言わずもがな、その視線はひどく冷たい。



 4

「……ごちそうさまでした」
 空になったどんぶりに万感の思いを込め、改めて合掌。本当に何度食べても美味い、最高の牛丼だ。
「はいよ。ところで最近、『あれ』の方はどうなんだ」
 玄蔵さんは食器を片しつつ、俺にそう聞いてくる。『あれ』とは俺の将来の目標……料理人になりたいという夢の話だ。
「やっぱりまだ駄目ですね……。どうにも夢からどんどん遠ざかってしまっている気がします」
「……そうかい」
 料理人になりたい。これは玄蔵さんの牛丼を初めて食べた時に思ったことだ。こんなにも人を幸せにできるものを自分も作って、人に食べてもらいたい……確か、そんなふうに思っていたことを覚えている。
 実をいうと、この夢は数年前までほとんど叶いかけていた。
 地元の高校を出た後、俺は調理師免許を取るために専門学校へと進み、無事に卒業。その後、とある料理店で見習いとして働くようになった。
 問題が起きたのはその後だ。見習いとして働きだしてからしばらくして、俺は仕事に対して思い描いていた理想と現実の差に気付かされた。
 多少味が落ちても儲けがいいものを、手間なんかいちいちかけていられない……全ての料理店や仕事がそうでない事はわかっているが、少なくとも俺の職場はそういう気風があった。それだけならまだいい、俺が見習いを卒業して、一人前の料理人になったら少しずつでも変えていけばいい、そう思えたから。
 しかし、今よりもっと青臭かった当時の俺は、言わないでいい事を、先輩に向かって言ってしまった。
「俺はあんたみたいに諦めない。自分の作りたいものでいつか誰かを幸せにする」
仕事の不出来をあげつらわれて思わず言ってしまった一言。その効果はてきめんで、次の日から俺は先輩グループから無視や嫌がらせという形で追い詰められていき、最終的には自分でその料理屋を辞めることになった。
最後の日、先輩は「諦めないって言ってたのにな」と言って笑っていた。なぜか嫌みのないさわやかな笑顔だったことが妙に印象深かった。
そうしてわかったのは、どうも物事はいい方向にはなかなか転じないというのに、悪い方向にはたやすく転がり落ちていくということ。
最初の料理店を辞め、俺は自分でも驚くくらい夢を仕事にすることが怖くなってしまっていた。気付けば料理に関係のない仕事を始め、いつかまた夢を叶えるため、という微かな望みに賭けて時間を浪費する日々。
 過去を思い出して思わず表情が暗くなるが、それを見かねたように目の前の店主から声がかかる。
「ま、お前の人生だ。なにに憧れてもいいし、なにを諦めてもいい……でもな、だからこそ、好きなことをやりな。死んでからじゃ後悔もできねぇんだからよ」
 そういって深くしわの刻まれた顔を歪めてにかりと笑う玄蔵さん。その言葉に少し勇気づけられる。
「はい、まぁなんとかやってみます。やっぱり料理をつくるのも食べてもらうのも好きなので」
俺のその言葉を聞くと玄蔵さんは、そうかいとだけ言って肯定も否定もしなかった。そういう人なのだ。他人になにかを強制しないというか、自分の考えはあくまで自分のもので、それが正しいことだと思っても他者をそれに巻き込む必要はないという考え方。
人によっては冷たく見えるかもしれないが、俺にはその距離感のようなものがありがたかった。憧れてはいても、無理にこの人にならなくてもいいんだ、と思えるような気がして。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻ります。明日もまた食べに来ますんで、待っててください」
「おう。別に待ってねぇけど、来たらまた美味いの食わしてやるよ」
 その後、会計を済ませて外へ出る。
夢は叶うかどうかわからない。
 でも道は潰えていない。俺が諦めなければきっとなんとかなるはず。それにこの世には牛丼というすばらしい癒しも存在しているんだ。
そう、諦めるにはまだ早い。
 人は何かを諦めて生きている。
 でも、俺はこの夢だけは諦めたくない。

 ──しかし、世界はなかなかに残酷だった。

「え?」
 それは俺が塩野屋の暖簾をくぐり、外に出た瞬間の出来事だった。
 歩道に乗り上げ、猛スピードで俺に突っ込んでくる自動車。まずいと思った時には、衝撃を感じる暇もなく俺の身体は宙に舞っていた。
 思い出すように感じるのは、何か硬いものが割れる感覚。
 ぐるり、と回転する視界のなか、最後に見えたのは冗談みたいに青い空と白い雲だった。
 ああ、これは死んだなと頭は妙に冷静で、ただ一つだけ俺は「二度と牛丼を食べられないこと」を悲しんでいた。我ながら最後に想うことまでが牛丼なのには心底驚かされる。
「俺の夢もここまでか──」
 ああ、こんな無意味に終わる人生なら、もう一度…せめてもう一度だけ牛丼を食べたかった。
 世界最高の塩野屋の牛丼、注文はもちろん──

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